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途中で読むの辞めてたらずっと”伊坂幸太郎”という作家を誤解したまま終わったに違いない。
とりあえず貸してくれた彼には「ありがとう」という言葉と一緒にシガレットチョコレートでも渡しておこう。
(だからタバコは程ほどにしてくれ)
『アヒルと鴨のコインロッカー』 伊坂幸太郎
今日会ったばかりの人間に「一緒に本屋を襲わないか」と言われて即”YES”と言える人間はそうはいないだろう。 というか、いて欲しくない。少なくとも私の近くにはいないでくれ!私だって「YES」と言えない。他を当たって欲しい。
でも人生の中にはそこで「YES」といわなければ… もしくは流されてでも本屋を襲ってみなければ見えてこない『真実』もある。 これはきっとそういう物語。
この本を読み始めてから本当にラスト近くになるまで、私はただただ怖くてしょうがなかった。
別にこの小説はホラーでも何でもないのに、現代人の心に巣食う狂気やら闇が常にストーリーのそこここに潜んでいて、普通の生活を望む主人公達にいつ襲い掛かってくるやも知れないような恐怖感を煽ってくるような気がしてしまうからだ。
ちょっと進展がある度に、怖々ドアを開いてギャっ!と叫んでしまうホラー映画の登場人物のような気持ちになってしまう。
読み進めながら「もしかしたらこうなってしまうんじゃ…」と予想したことの結果だけなら”読み”通り、でも過程は全然違っていた。
私が単に残酷なだけなのか、伊坂幸太郎の世界は実はもっと淡々と、そしてもっと優しくできていた。
…いやある意味、私の予想よりも残酷かもしれない。
ただただとにかく簡単に泣いてしまいたくなくて、ぐぐっと我慢してみた。
いちいち理由をつけてちまちま読んでいた私は、拍子抜けしたような…一種のファンタジーとすら言っていいようなラストに、今まで怖さでぎりぎりしていた肩の力が一気に抜けてしまったのが許せないような、そのまま流されてしまいたいような妙な気持ちになった。
人がずっと持ち続けている主義主張や信念や習慣、とにかくその人の根幹にあって一番揺らがないであろうものすら変えてしまう…(言葉にすると陳腐だけれど)たとえば『愛』だったり『友情』だったり『事象』だったりって一体どういうものなんだろう…と読み終えた後にずっと考えていたら、あっさり涙腺が降参してしまった。
こんなことは京極の『嗤う伊右衛門』以来だ…なんかズルイな、伊坂幸太郎。
タイトルの『アヒルと鴨のコインロッカー』が謎として残ったけど、最後の最後でそれもわかった。そういえば最初からずっと出てたね、『アヒル』も『鴨』も。
この本を返したら、自分で買おうかな…というより、既に文庫で買うかハードカバーで買うかで悩んでる時点で負けた気がする。
ブラボー!伊坂幸太郎!!(何かすっげぇ嬉し悔しいよ…)